◎難波別院の開基・教如上人

 難波別院(南御堂)の創建は、今から400年以上前の安土桃山時代の末、1595年(文禄4)に、本願寺第12代・教如上人(1558〜1614)が大坂渡辺の地に「大谷本願寺」を建立したことに始まります。   創建から2年後の1598年(慶長3)に、豊臣秀吉による大阪城の拡張と、城下の町制改革でなどにより、大谷本願寺は現在の難波別院のある地へと移転します。また、1602年(慶長7)には、関ヶ原の合戦に勝った徳川家康によって京都・烏丸七條の地が寄進され、教如上人は大坂から京都へと寺基を移されます。   教如上人は東本願寺(真宗大谷派の本山・真宗本廟)の建立と共に、大阪の大谷本願寺の地を「難波御堂(難波別院)」とし、大阪における念仏の中心的な道場とします。その後も上人はたびたび大阪の地に赴き、お念仏の教えを説き広め、上人亡き後も難波別院は、宗祖親鸞聖人のみ教えを伝えていく上において今日まで大きな役割を果たしてきました。   難波別院の境内には、開基である教如上人が大谷本願寺を創建された際、1596年(文禄5)に鋳造された「大谷本願寺」銘の梵鐘が今も残り=写真@、教如上人のご苦労とその遺徳を伝えています。  また、2014年6月20日付でこの梵鐘が大阪市文化財保護法条例第6条第1項の規定により大阪市指定有形文化財(歴史資料)に指定されました。今回の文化財指定によって、真宗大谷派発祥の礎を後世に伝えていく歴史資料として、より多くの人々の目に触れることが願われます。「大谷本願寺」銘の梵鐘は難波別院境内の獅子吼園に保存されておりどなたでも自由に見学することができます(開門午前6時頃〜閉門午後9時頃まで)。

◎「大谷本願寺」を前身として

 教如上人がなぜ大阪に大谷本願寺を建てられたかについては、本願寺第8代・蓮如上人(1415〜1499=写真A)の時代にまでさかのぼります。蓮如上人は、大阪(大坂)という地名の名付け親として知られていますが、これは1496年(明応5)、上人82歳の時、現在の大阪城の地に「大坂坊舎」を建立したことに由来します。 その後、京都にあった山科本願寺が破却されたことから、大坂坊舎は1533年(天文2)本寺と定められ、大坂本願寺(石山本願寺)となります。以来、大坂本願寺を中心に寺内町が整備され、大阪の町は以後、飛躍的な発展をとげるのです。  しかし、戦国時代へと移ると、教如上人の父、本願寺第11代・顕如上人の時、天下統一を目論む織田信長と本願寺、全国の真宗門徒との間で、1570年(元亀元)に合戦の火ぶたが切って落とされます。これが世にいう「石山合戦」です。石山合戦は11年間にもおよび、和睦後、教如上人は紀州鷺森(和歌山)に退去し、本願寺の寺基が移されます。  その後、本能寺で信長が明智光秀に打たれ、1583年(天正11)、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城を築城します。この頃、大阪天満の地にあった本願寺は、秀吉から寺地を寄進されます。これが現在の西本願寺(京都堀川の地)です。  しかし、1592年(文禄元)に顕如上人が逝去して、長男の教如上人が本願寺第12代を継職しましすが、教如上人は1年足らずで秀吉により隠居を命じられます。  隠居の身となった教如上人でありましたが、積極的にお念仏の教えを各地に弘められ、1595年(文禄4)には大坂(大阪)に戻り、渡辺の地に堂宇を建立します。これが難波別院の前身である「大谷本願寺」です。