本堂(曼荼羅堂)(国宝)

金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。1957年から1960年にかけて実施された解体修理時、棟木に永暦2年(1161年)の墨書が発見され、平安時代末期の建築であることがわかった。この修理時の岡田英男の調査の結果、この堂は平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したものであり、その前身堂には、さらにさかのぼる奈良時代の建物の部材が転用されていることが明らかとなった。調査の結果判明したところによると、奈良時代の第一次前身堂は桁行7間、梁間4間、切妻造で掘立柱の建物であり、同形の建物少なくとも2棟分の部材が現本堂に転用されている。この建物には天平尺が用いられているところから、奈良時代の建物であることが明らかである。その後、平安時代初期頃に桁行7間、梁間4間、寄棟造の堂(第二次前身堂)に改造された。この時点では屋根は瓦葺きではなく檜皮葺きか板葺きであった。現存する本堂内の厨子の製作もこの頃とみられることから、第二次前身堂への改造は、当麻曼荼羅を安置するためのものであったと推定される。その後、この堂の前面に孫庇が付加され、永暦2年に現在のような桁行7間、梁間6間の仏堂となったものである。内陣部分はほぼ第二次前身堂を踏襲しており、内陣の天井を支える二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)の架構も第二次前身堂のものである。瓦銘から文永5年(1268年)に屋根が修理されていることがわかり、同じ頃、堂裏に閼伽棚を付設し、外陣に格天井を張り(元は化粧屋根裏)、南北の庇を小部屋に分けるなどの改造が行われている。前述の解体修理時、屋根裏からは多数の仏像用の板光背が発見された。これらの板光背はおおむね9?11世紀の製作と推定されるが、これらが所属していた仏像本体はみあたらず、なぜ光背のみが大量に残され、屋根裏に格納されていたのかは謎である。
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