西塔(国宝)
三重塔で、総高(相輪含む)は東塔よりやや高い25.2メートル。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される。西塔は、高さ以外にも東塔とは異なる点が多い。柱間は初重から三重まで3間とする。屋根上の相輪が八輪になっている点は東塔同様だが、水煙のデザインは未敷蓮華(みふれんげ)をあしらったもので、東塔のそれとは異なっている。初重内部は心柱の周囲に板を張り、そこに三千仏図と浄土曼荼羅図が描かれていた痕跡がある。1911年(明治44年)から1914年(大正3年)にかけて西塔の修理が行われた際、心柱頂部に舎利容器が奉籠されているのが発見された。同時に発見された文書から、この舎利容器は建保7年(1219年)に行われた修理時に納められたものであることがわかるが、心柱の地下ではなく頂部に舎利を納めるのは中世以前では類例が少ない。また、東塔はヒノキ材であるが、西塔はケヤキ材(一説にカリン材)が使われている。これも平安時代までの建築として広葉樹材が使われることは異例。前述の、心柱の最上部で発見された舎利容器は、再び元の位置に納置され、長らく人目に触れることはなかったが、2017年度、西塔の屋根瓦葺工事に際して、同じ場所に舎利容器が納められていることが再確認された(2018年11月、奈良県教育委員会及び奈良国立博物館により発表)。この舎利容器は、金製、銀製、金銅製(銅に金メッキ)の3つの容器が入れ子になったもので、様式から飛鳥時代後期(白鳳期、7世紀後半)の製作とみられる。このように、金・銀・銅の3つの容器から成る舎利容器は、崇福寺跡(滋賀県大津市)出土品など飛鳥時代後期の例はあるが、奈良時代以降には遺品がみられないものである。現存する西塔は建築様式から平安時代前期(9世紀)の建立とみられるが、心柱とそれを支える心礎の形状とが一致しないことから、9世紀の創建ではなく、一度再建されたものではないかということが早くから指摘されていた(建築史家・足立康の1933年の論文)。西塔の建立年代(平安時代前期)と舎利容器の製作年代(飛鳥時代後期)が一致しないことから、足立説のとおり、西塔は飛鳥時代に創建され、平安時代前期に再建された可能性が高まっている。
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